最近、あるママ友とランチに行ったとき、
心の中に少しザワつくものを感じました。
私は昔から、
人に気を遣いすぎる傾向があります。
特に、仕事関係で
夫を交えた家族ぐるみの集まりの場では
「ビジネスの一環」として空気を読んで振る舞っていました。
でも、
そんな私に夫はよく言うのです。
「良い子ちゃんすぎ」
「なんか変なテンションだったよね」
その言葉に対して、
これまでは「そうかな…?」と
受け流してきました。
けれど、
ママ友とのランチの帰り道、
不意にこんな気づきが浮かんだんです。

ああ、私は
夫からの言葉で、自分のことを少しずつ信じられなくなっていたんだ。
でも──
そもそも本当に、これって“悪いこと”なのかしら?
Contents
きっかけ:ママ友とのランチ
近所に
仲の良いママ友がいます。
明るくて社交的で、
誰とでも打ち解けられるタイプの彼女。
少し“リア充マウント”を感じる瞬間もあるけれど、
嫌味なわけではなく、
決して悪い人ではありません。
だけど、私はいつも
どこかで身構えてしまいます。
どこまで本音で話していいのか分からないし、
なぜか少し疲れる。
その日のランチは、
私の方から声をかけて実現したものでした。
以前「また行きたいね」と言われたのを覚えていて、
気を回して誘ったんです。
でも本音では──
一人の方が気楽。
行きたくない、というわけではないけれど、
人間関係というか、お付き合いは大切にしたい。
そんな想いで誘ってみました。
なので、
ランチ中もずっと、
「ちゃんと盛り上げなきゃ」
「相手が楽しくいられるように」と、
どこか気を張っていたように思います。
そして帰宅後、いつものように
「自分反省会」が始まりました。
「うまく話せたかな?」
「浮いてなかったかな?」
そんなことをグルグル考えていたとき、
不意に心の奥から、
こんな言葉がこぼれました。
「私は、“場が和やかになるように”って思って頑張ってた。
でも──
夫は、それを笑うんだ。」
心の声がぽろりと出た
思い返せば、夫にはよく言われてきました。
「ああいうとき、なんか妙なテンションになるよね」
「良い子ちゃんキャラ演じてるの?」
私は、ただ
「その場が楽しくなるように」と
願って行動していただけでした。
それが、
どこか “変なこと” として
茶化されていたように感じました。
「私って、やっぱりどこかズレてるのかな?」
「気を遣いすぎなのかな?」
そんな風に思うたび、
自分の行動に迷いが生まれ、
自信をなくしていったのだと思います。
ただ優しく在りたいだけだった
でも、思い返せば。
私は誰かと心地よく過ごしたかっただけだった。
相手の気持ちを考えて、
楽しい時間になるように動いていただけだった。
だって、
私と一緒に過ごした時間に後悔してほしくないから。
つまり、私は
「良い子ぶってた」わけじゃない。
私は、
「誰かを大切にしたかった」だけ。
私がしていたことは、
“媚びる”ことでも“気を使いすぎる”ことでもないと思う。
ただ、人との関わりの中で、
他人と過ごす事の意味と
居心地の良さを大事にしていただけ。
夫はこんな私を馬鹿にするけど、
これは、ただの優しさだったんだと、
ようやく気づきました。

笑顔の裏で、私は疲れていたのかもしれない
この記事を書いている途中、
ふと「笑顔鬱」という言葉が浮かびました。
医学用語ではないけれど、
近年よく耳にするようになった言葉です。
笑顔鬱とは、
周囲に気を遣って明るく振る舞い続ける一方で、
心の中では強いストレスや疲労を感じている状態
のこと。
- 本音を出せない
- いい人でいようと頑張りすぎてしまう
- 自分が我慢すればうまくいくと思っている
──そんな特徴があるそうです。
そう思うと、
私はまさに「これ」だったのかもしれない、
と思いました。
気を遣い、
笑顔で振る舞い、
場を盛り上げる。
でもそのあと、
一人になって反省会を開き、
傷ついていた自分がいた。
だから、
こうして記事に綴ることもまた、
私にとっての回復のプロセスなのかもしれない
ということにも気付きました。
馬鹿にされた言葉の裏にあるもの
そして、思ったんです。
もしかしたら夫は、私が自然にできる
「気配り」や「優しさ」を
自分がうまくできないからこそ
茶化していたのかもしれない。
そんな風に考えてみました。
優しさや気配りを、バカにしたり、
茶化したりする人がいたとして。
それは、
その人自身が“感情に不器用”だから
かもしれない。
人は、
自分にとって難しいことを目の前でされると、
照れや劣等感から、
つい否定的に見てしまうことがある。
だから、
誰かが私の優しさを笑ったとしても──
それはその人自身の「不器用さ」なのかもしれない。
そんな風に思う事にしてみました。
私が、自分を疑う必要なんてなかった
そんな風に感じた瞬間でした。

気づいたこと、そしてこれから
私は今もきっと
気を遣いすぎるところがあります。
誰にでも心を開けるわけじゃないので、
基本的に人付き合いは少し疲れる。
でも、だからこそ──
本当に大切にしたい人には、
丁寧に関わっていきたい。
私に誠意をもって付き合ってくれる人には
ちゃんと誠意をもって接していきたい。
そんな風に思うようになりました。
これからは、
「良い子ぶってる」と思われることを恐れるのではなく、
「私はこうありたい」と思える自分のあり方を、
静かに選んでいけたらいいなと思います。
まとめ:宝物をみつけた
私の気遣いは
「偽物」なんかじゃなかった。
私は本当は、
誰かを想って動ける人だった。
そして今は、
それを“誰にでも”ではなく、
“本当に大切にしたい人にだけ”に届けていく勇気を、
少しずつ持てるようになってきました。
でも正直なところ、今も時々
「やりすぎたかな」
「浮いてなかったかな」と
モヤモヤする自分もいます。
それでも、
「それが私のまじめさで、優しさなんだ」
と思えるようになってきた──
そんな今の自分が、ちょっとだけ好きです。
もちろん、私はまだ完璧じゃないし
これからも悩むことはあると思います。
でもそれでも、
自分を疑いすぎず、
少しずつ自分の“優しさ”に
自信を持って進んでいきたい。
そう思えるようになったことが、
今回の一番の学びだったと思います。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました!
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