最近、ふと思ったんです。
「この友達との時間って、
私にとって本当に意味があるのかな」
ランチや飲みに行く時間は
確かにちょっとした”非日常”
を感じられて楽しい。
笑い合ったり、
悩みを聞いてもらったりするのは
確かに心が軽くなる瞬間があります。
でも
何か自分が大きく変わるような
成長や学びのある時間か?
と言われると、少し違う。
実際、頭の中を整理したり
聞いてあげたり
聞いてもらったりすることで
一時的なストレスは解消されます。
だけど、それ以上に
「この時間は自分の人生を前に進めるものだ」
と感じることは、あまりないんです。
この違和感が
最近ずっと心に残っていました。
もしかすると、私は
「友達との時間の価値」を
無意識に測るようになっているのかもしれません。
今回は、そんな気持ちをまとめてみました。
Contents
友情と時間の価値
考え方のヒントとして
私は「7つの習慣」の概念を思い出しました。
その一つに、
緊急だけれど重要でないこと──
一時的な快楽や
表面的な付き合いに時間を使っている自分に
ふと気づいたんです。
友達と会う時間も
場合によってはそれに当てはまるんじゃないか、と。
もちろん、
愚痴を聞いてもらったり
聞いてあげたりすることも大事です。
でも
そこから自分の考え方が広がったり
人生の質が高まったりするわけではない。
そう考えたときに
私は迷い始めました。
「この頻度で会うことは、
本当に自分にとって必要なのか」
「友情を大切にすることと
自分の時間の価値を守ることは
両立できるのか」
さらに
こういう関係は
「利害関係でつながっているだけの友達」
とも重なって見えることがあります。
利害関係だけの友情は
表面的には楽しそうに見えても
本当の意味で
お互いの成長に関わる時間ではない。
それを「友達」と呼べるのか
そんな疑問が
頭をよぎる瞬間もあります。
付き合い方を見直す
時間の価値を意識する
まず私が大切にしたのは
「その時間が自分にとってどんな価値をもたらすか」
です。
”価値”などと言ってしまうと
とても大それたものに
聞こえてしまうかもしれません。
でも、シンプルに
例えば、月に何度も
ランチや飲みに誘われると
楽しいけれど疲れることもある。
その時間を仕事や
自分の学びに回した方が
長期的には
自分を豊かにする場合もあります。
だから最近は
予定を決める前に
「この時間は自分にどんな価値をもたらすか」
を意識するようにしました。
無理に断るのではなく
「この日は自分の学びや充実にあてたい」
と認識して
自分の気持ちを確認するだけでも
心が軽くなります。
会話の質を意識する
正直に言うと、
話していて「疲れる」と
感じる相手もいます。
例えば・・・
夫の愚痴、姑の愚痴、
子どもの愚痴──
話題のほとんどが
誰かへの不満や不運の話ばかりの人。
もちろん、
そういう話を打ち明けてもらえるのは
信頼されている証でもあると思います。
「家庭の話をできる相手」として
認めてもらえていることは、
素直に光栄です。
でも、
ただ鬱憤を晴らすために
私が利用されているような感覚
になることもあるんです。
聞いているうちに、
相手の感情の波に引きずられてしまって
気づけばこちらの気力まで
消耗してしまうような感覚。
そして
愚痴の内容よりも
私が重たく感じるのは
「話しているのに、
相手に“次”の考えがない」タイプの人
との会話です。
「こんなことがあって腹が立った」
と話すのはいい。
でも
「これからどうしていこう」
「こんな工夫をしてみた」
「私はこうしてみよう」という
前向きな視点がまったくないと、
ただその場で
感情を垂れ流しているだけになる。
”相談”という形で
話してくる人もいますが
具体的な提案をしても
「でも」「だって」と返すばかりで
結局
「自分は悪くない」
「相手が100%悪い」という思考のまま。
そういう会話をしていると
こちらの中で
「何も変わらない時間」
に感じてしまうんですね。
話がどこにも向かわないから
エネルギーも時間もただ失われていく。
だから私は、
あるときから決めました。
明るい方向性が見えない話ばかりする人とは、距離を置こう
と。
もちろん
悩んだり、迷ったり…
人間だもの
そんな苦しいフェーズの時は
ただただ話を聞く側に徹します。
でも
いつまでもそこで
立ち止まることを望んでいる人とは
そっと距離を置くー。
相手を否定しているわけではありません。
私自身が、相手のペースに
付き合いすぎる必要はないという事。
悲しみ、苦しみに浸るのは
相手の問題。
私の問題じゃない。
学びを感じた会話の心地よさ
一方で、
話していて心が満たされる人もいます。
たとえば
同じように「こんなことがあった」と
愚痴っぽい話をする人でも
その語り方にどこか
“前向きな思考”がある。
「いや〜今日こんなことがあってさ(笑)」
と、ちょっと笑いながら
話してくれる人。
決して眉間にしわを寄せて
私を”巻き込む”わけじゃなくて
出来事をユーモアを交えて話しながら、
「次はこうしてみようと思ってるんだ」と
ちゃんと次の一歩を考えている。
もしくは
「どうしたらいいと思う?」
と、私の意見を真摯に聞いてくれる。
そんな人との会話は
聞いていて気持ちが明るくなります。
たとえそれが、失敗談でも
愚痴であっても
「ああ、こういう考え方もあるんだな」
と学びになる。
一緒にいて前向きになれる人との時間は、
まるで“栄養”のように感じるんです。
私は「成長」や「気づき」が生まれる会話
を大切にしたいと思っています。

距離を置く勇気
実際、距離を置くと決めたときは
少しの罪悪感もあります。
「冷たいと思われるかな」
「友達なのに、離れてしまうのは悪いことかな」
でも
無理に合わせて疲弊するより
正直に自分を守る方が
結果的に誠実なんだと思うようになりました。
距離を置くと、
相手はー
もしかしたら、私ではない
他の誰かという吐き出し口を
探すのかもしれないし、
もしかしたら、
自分と向き合い”なりたい状況”に
していく事を選ぶのかもしれない。
私はー
静かな気持ちになる。
自分の時間と心に余白ができる。
その余白があるからこそ
新しい出会いや成長の機会が入ってくる。
人との関係って
いつまでも同じ形では
続かないものなんですよね。
お互いの価値観や生き方が変われば、
自然と距離も変わる。
それは
“終わり” じゃなくて “形の変化”。
そんな風に今は思っています。
人間関係の淘汰=悪ではない
大人になると
「人間関係を減らすこと」に
どこか罪悪感を抱く人も多い。
でも
本当に必要なのは
“減らす”ことではなく
“整える”こと。
人生のフェーズが変われば
付き合う人も変わる。
それは自然なことだし、
成長している証であると思うんです。
昔は頻繁に会っていた友達とも、
今はたまに連絡を取り合うくらい。
でも、
それでもいいと思う。
互いに違う方向を向いていても
心のどこかで尊敬し合えるなら、
それも立派な友情の形だと思います。
まとめ
こうして
自分の付き合い方を整理してみると
気づいたことがあります。
- 「友達を精算する」とは、切ることではなく、距離の調整のこと。
- 愚痴や相談であっても、前向きな思考を持つ人との時間は学びになる。
- 逆に、何も変わらない愚痴だけの会話は、エネルギーを奪うだけ。
- だから、関係を整理することは「自分を大切にする選択」。
そして何より
人との関係を見直すことは
相手を否定することではなく
自分の人生を
主体的に生きるという選択でもある。
だから、これからは
「友達だから会わなきゃ」
ではなく
「この人と過ごす時間が
自分の成長や人生の充実にどう影響するか」
これを基準にして
関係を見ていこうと思います。
もちろん
利害関係で付き合うと言うような
関係性ではありません。
ただ、
友情とは
永遠に続けなければいけない義務
ではなく、
互いに尊重しながら
そのときの自分に合った形を選び直していくこと。
心地よい距離感の中で
“成長と安心”のバランス
を見つけていけたら
人との関係はもっと
豊かでやさしいものになるのかもしれませんね。
今回もお読みいただき、ありがとうございました!













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