“優しさ”の仮面に潜む支配?──「あなたのため」を口実に、私を下げる人

最近、夫の「優しさ」に
違和感を覚えるようになりました。

端から見ると、
表向きはいつも穏やかで
思いやりのある人。

けれど、なぜかその“優しさ”が、
私の心をじわじわと
締めつけるように感じる瞬間が増えてきたんです。

「君のために」
「助けてあげたい」──

その言葉の裏に、ほんの少しだけ
私の自由や意思を
ねじ曲げるような力が潜んでいる…。

最初は気のせいだと思っていました。

でも、ある日を境に
「あれ、これっておかしくない?」と
はっきり感じるようになったんです。

優しさを口実に、私の流れを乱す夫

私は11月30日に
化粧品検定を受ける予定があります。

試験まであと1か月弱。
仕事と家事をやりくりしながら
勉強に集中したい事は夫に伝えています

彼は「頑張ってるね」と
笑っていました。

──その翌日、彼は突然
ポケモンのソフトを買ってくれました…。

「息抜きも必要でしょ」
と言って差し出す夫。

最初は冗談かと思った。
けれど、
このタイミングに
どうしても違和感がありました。

まるで…

“勉強に集中しようとする私”を
どこかで揺さぶりたいような

そんな空気。

彼は私の努力を応援しているのではなく、

「自分のペースの中で頑張る私」を
崩したいのではないか
感じてしまったんです。

言葉と行動のズレ

もう一つ。
また別のお話ですが…

私は生理中は、スィーツを食べません。

理由は、
食欲がなくて、せっかくのスィーツが
美味しく食べられないと分かっているから。

そのことは夫に何度も伝えているけれど

私に生理がくると、
次の日にはよく生菓子を買ってくるんです。

「食べたいなー」と話していた時期には
そうした行動はないのに…。

最初は
「たまたまかな」と思っていたけれど

繰り返されるうちに
ひとつの傾向を感じ始めました。

彼の“優しさ”は
私を安定させるためではなく

“私を揺らすため”に
発動しているのではないか、と。

それは、私が
静かに整おうとするときほど現れる。

まるで・・・

「お前が自分のペースで満たされると、
俺の居場所がなくなる」
とでも言うように・・・

体調不良の朝

その違和感が確信に変わったのは、
ある休日のことでした。

朝から夫は
「体調が悪い」と言って寝ていました。

私は心配しながらも、
そっと静かにしていました。

ところが、昼過ぎになって突然
「ハラダのラスクを買いに行く」
と言い出しました。

前日に私が
「久しぶりに食べたい」と言っていたから、
その言葉を覚えてくれていたんですね。

ただ、次の日、
出張を控えているタイミングで
無理をしてまで行くほどのことじゃない…。

私は
「無理しないほうがいいよ」
と言いました。

すると彼は
「他にも寄りところもあるし」と言って

結局ふたりで出かけることになったんです。

そして、道中。

車の中で、彼は
「はぁ…」「ふぅ…」と、あからさまに
ため息をついていました。

なんだか、本当に
見るからにしんどそうだったんです。

「やっぱり今日は
やめといた方がよかったんじゃない?」

と、
私は思わず口にしてしまいました。

そしたら…!

その瞬間、彼の表情が変わりました。

「お前は正論を振りかざして勝ちたいだけなんだろ」
「俺に“そうだね”って言わせたいだけなんだろ!」

怒りに満ちた声が、
狭い車内に響いて怖くなりました。

私は、ただ心配していたのに。
体を大切にしてほしかっただけなのに。

でも、彼にとってそれは
“責め”と感じたようで・・・

私は何故、自分の心配や優しさが
勝ち負けの話に変換されてしまっているのか
理解できなかった

そのうえ、

「お前の正論は俺を否定している」
そう言われてしまったんです。

崩れ落ちる「優しさ」の仮面

そして、さらに

「それは俺に対しての心配じゃない」

そう言われた瞬間、
私の心は凍りました。

私の言葉の意味や優しさを
根こそぎ否定されたような感覚。

ああ、この人にとって

“優しさ”とは

自分の気分を
よくするためのものでしかないのだ

と悟ってしまった出来事でした。

私が心配を口にすることで、
彼の「自分は頼られている」という
自己像が揺らぐ

だから、その
“揺らぎ”を抑えるために
私を攻撃する。

それはまるで、
自分の中の脆さを隠すために

他人を“下げて”
均衡を取ろうとするような行為だと感じました。

「支える人」でありたい人たち

こういう人は、心理学的に
「支えてやっている」という感覚で
自分を保っています。

「助けている自分」
「理解してあげている自分」

──その役割を失うと、
自分が空っぽになる。

ナイチンゲール症候群…
という言葉で語られるかもしれません。

相手が自立しようとすると
無意識にそれを邪魔する。

「俺がいないとダメだろ」
「お前は放っておくと間違える」

そんな言葉で、
優位な立場を守ろうとする。

表面上は優しさを装いながら、
実際には
支配”でしかない関係を築いていく。

そして、その支配は
思いやり」という形をしているから、
とても見分けがつきにくい。

たとえ話

まるで、沈みかけた船の上で
他人の足を掴んでいるようなもの

そんな風に感じました。

自分が沈まないように、
相手を引きずり込む。

本人は
「一緒に助かろう」と
言っているつもりでも、

結果的に相手の自由を奪ってしまう

「俺がいないとダメだ」
と思い込むことで、
自分の存在を確認しているんですね。

その行為は
“優しさ”の仮面をかぶった支配です。

相手を、
対等な存在として見ていないからこそ
無意識にとる行動なんです。

「優しさ」は相手を信じる力

この経験を通して気づきました。

本当の優しさとは、
相手を信じる力」なのだと。

相手が選ぶ道を信じて、見守る。

子育てと同じですね !

相手の人生を自分の正しさで支配しない

そう思えるようになってから、
私は少しずつ、
言葉を飲み込む勇気を覚えたところです。

黙っている”というより
見守る”という選択。

相手の中に、
自分で立ち上がる力があると信じること

それが、私が考える
本当の優しさでありたいと
気づいたんです。

私の中の“支配欲”

正直に言うと、
私の中にも“支配の芽”が
あったことにも気付きました。

夫が体調を崩したとき、
「無理しないで」と言いながら

それを聞き入れない彼に
苛立っていたこと。

私は私の中の「正しさ」で
相手を変えようとしていた
のかもしれない。

相手の意思を尊重するよりも、
「私の思う正解」に導こうとしていた

──それもまた、
形を変えた“支配
だったのかもしれません。

この気づきは、少し苦い。

けれど、

その苦さの中にこそ
本当の人間関係の輪郭
があるのかもしれない…

そんな学びになりました。

優しさを見極めるということ

「有難迷惑」(ありがためいわく)
という言葉があるように、
思いやりの形は人によって違います。

けれど、
どんなに「優しさ」に見えても

それが
「相手を下げて自分を保つためのもの」なら、
それはもう優しさではない。

そして

他人を支えることでしか
自分の価値を感じられない人がいる事実。

そういう人は、

“ダメな人間を支えてやっている”
という構図を
無意識に作りたがる。

でも、
そこに居続ける限り
お互いが成長することはできない。

だからこそ私は、

「優しさの形」を鵜呑みにせず、
その奥にある
“意図”を見極めたいと思っています。

それがきっと

これからの人生で人と関わるうえでの
いちばんの防御でもあり
誠実さでもあると私は思いました。

まとめ

「あなたのため」
という言葉の中に
ほんとうの思いやりがあることもある。

でも同時に

「自分を守るための言葉」が
優しさの仮面をかぶって
現れることもある。

その見分け方は

“それをされたとき、
私が自由でいられるかどうか

もしその優しさが、
私の自由や心の静けさを奪うなら、
それはもう優しさではない。

そうやって
自分の心の声を信じること

それが、
私がようやく見つけた
“本当の優しさ”の形。

これから私は
この感覚を信じてみよう
と思った出来事でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました

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