「性格が悪いよね」
夫から良く言われる言葉です。
ちなみに、夫以外の方からは
言われたことはありません。
こういう言葉って、
言われた瞬間よりも
時間が経ってからのほうが
なぜか苦しくなることがあります。
怒りが爆発するわけでもなく、
泣きたくなるほど
悲しいわけでもない。
ただ、言われるたびに
胸の奥に
小さな棘が
どんどん刺さっていくような感覚。
私は長い間、それを
「気にしすぎ」
「考えすぎ」
として片づけてきました。
夫に悪気はなかった。(はず)
深い意味はない。(はず)
そうやって
自分を納得させてきました。
でも、最近になって
この言葉の背景を考えていくうちに
私はようやく
気づいたことがありました。
今回は、そんな私が気付いたことと
”刺さった棘の抜き方”について、
書いてみようと思います。
そもそも私は、本当に「性格が悪い」のか
私は昔から、
人と関わるときに
少し先のことを
考えてしまう癖がありました。
- この展開、相手はどう感じるだろうか。
- この前提が崩れたら、気持ちは変わらないだろうか。
- あとで誤解は生まれないだろうか。
こんな風に
私の手が及ばない範囲外のことまで
考えてしまうんです。
例えば、
誰かを自宅に招くとき。
「この時間に約束すると、お昼が出ると
思って来るかもしれないな」
「それがなかったら
がっかりするかもしれない」
そんなふうに
頭の中で
シミュレーションが始まります。
でも、夫にその内容を口にすると
「普通、そんなとこまで考える?」
「穿った見方だよ」
「性格が悪いから(お前だったらそう考えるから)そんな風に思いつく」
そのたびに
私は思ったのです。
私の見方は
ひねくれているのだろうか。
人を悪く見すぎなのだろうか。
そうして、
だんだんと
こういう考えは
「性格が悪い」と思われるんだな。
と学習して
自分の感覚を
信用できなくなっていったんです。
「性格」ではなく「思考の特性」だと気づくまで
でも、あるとき
改めて
自分が何を考えてそんな風に思うのか
冷静に見てみました。
私は、
- 相手の立場を想像する
- 行動の裏にある動機や期待を想像する
- 起こりうる摩擦や誤解を先に察知する
それを、無意識に
やっていました。
これは・・・
悪意でしょうか。
意地、性格の悪さでしょうか。
私は、
違うだろう、と思ったんです。
場を荒立てないために、
誰かが傷つかないために、
問題が起きないように…
今まで経験してきた人間関係の中で
自然と身につけてきた
「予測力」だったと
自分の中で確信しました。
一方で
夫はというと、
夫は
- 人の内面を想像するのが苦手
- 見えていないものを見ようとしない
- 自分が考えていない視点を突きつけられると防衛的になる
そういうタイプ。
つまり、
私の視点は、夫にとって
「理解できないもの」
だったのです。
理解できないものは、
人を不安にさせます。
だから、
「性格が悪い」
「穿った見方だ」
と単純化して、切り捨てた。
そう捉えたほうが
私の中では辻褄が合いました。
夫が私に言う、
「性格が悪い」
に込められた意味。
それは、
私を評価した言葉ではなく、
夫が自分自身を守るための言葉
だったのだ、と。
そんな風に仮定しました。
刺さっていたのは、受け入れていたからだった
では、
なぜ私が今になって
夫に
「性格が悪い」と言われたことに
傷ついていたのか。
それは
「性格が悪い」と
言われた事実ではありません。
その言葉によって、
「私はそういう人間だ」
と定義されてしまったと思ったこと
でした。
私は、心を許している身近な人に
「君は〇〇だね」
と言われたら、
そうなんだ・・・
と、馬鹿正直に
そう思ってしまうタイプの人間です。
それが、親でも
パートナーでも、親友でも…
信頼している相手であればあるほど
人はその言葉を“真実”として
受け取ってしまいやすいのだ
と思います。
だから、
当時の私は
夫の言葉をそのままストレートに
受け取ってしまった。
人の感覚や
思考の癖は、
善悪では決まりません。
優劣でもありません。
ただの
習慣や、特性です。
だから私は、
長い間その定義を
自分で握りしめていました。
夫が言うように、
「私は性格が悪いのかもしれない」
「考えすぎなのかもしれない」
そう思うことで
大切なパートナーとの関係を
壊さないようにしてきたのです。

でも、今の私は
相手の言葉を
そのまま受け取る事を辞めた。
つまり、
夫の発する”棘”を
自分の心に“刺す”のか”刺さないのか”を
選べる選択肢を持ったんです。
友達のと会話で
最近、友達との会話の中で
こんな話をしていました。
「ありのままを受け入れてくれる人と
結婚していたら、
もう少し幸せに生活できていたかもね」
お互い、笑いながらそんなことを
語っていました。
一見すると
愚痴に聞こえてしまうかもしれませんが、
でも、これは不思議と
恨みでも、後悔でもないんです。
今の自分は、自分を
ちゃんと理解している
という証拠でした。
だから、
笑って言えた。
それに気づいたとき、
私は思いました。
もう、誰かに
棘を抜いて欲しいと
苦しみながら耐える必要はない。
棘は、自分で抜けるんだ
と。
まとめ
これからもきっと
夫からだけではなく、
人の言葉が小さな棘となって
刺さってしまうことはあるでしょう。
でもそのたびに、
こう問い直そうと思います。
これは
私の成長に必要な言葉なのか。
それとも
相手が理解できないから
否定されただけなのか。
これからは
誰かに
「大丈夫、そんなことないよ。」と
言ってもらって安心するだけじゃなく、
刺さった棘に気づいたら
自分自身で、ひとつずつ
抜いていけばいい。
今日の気づきでは、
その一歩を
踏み出せた気がします。
読んでいただき、
ありがとうございました。











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