人間関係の境界線の引き方|自分をすり減らさないための「手放す」技術【2025年まとめ】

2025年の終わりに
新年に向けて、たどり着いた気付きを
綴ろうと思います。

始まりは、ただの
ごくありふれた
家庭内の会話です。

昨日の夜、寝る前の
何気ない時間。

もうすぐ
クリスマスだから、
私は夫にこう話しました。

「子どもたちの
サンタのプレゼント、
どうするの?」

すると、返事がない。

少ししても、
やっぱり
何も言わない。

その沈黙に、
私は少し腹が立って

つい強い言葉を
使ってしまいました。

「……聞いてる?」

言い方が
よくなかったことは、
分かっています。

でも、
無視され続けた
あの空気の中で

子供の話よりもスマホゲームが
優先されていた事に
私の中の何かが渦巻いていたのも事実。

そして
怒りというより、
話が始まらないことへの違和感でした。

話題がいつの間にか別のものに変わる違和感

夫は、
少し離れた場所で
スマホを触っていましたが

ついに、こちらに来て、
彼はこう言いました。

「まず、
なんで俺が決めることに
なってるんだ」

「こんな差し迫ってから
言ってくるなんて、非常識だろ」

私は、一瞬
言葉に詰まりました。

私は
「決めてほしい」
とは
言っていません

ただ、

親としてどう考えるかを
共有したかった

だけでした。

でも、
彼の中ではすでに話は
別の文脈に置き換えられていた
ようでした。

「責任を押し付けられた」
「急に判断を迫られた」

そんなストーリーが、
会話の外側で出来上がっていた
ように見えたのです。

「勝ち負け」の価値観

これ以上話しても
噛み合わないと思い、
私は一度引きました。

「失礼でした。
申し訳ありません」

すると夫は、
こう続けました。

「俺が同じ言い方をしたら
許されないのに、
お前はそれで済むと思ってるんだな」

私は、
さらに謝りました。

「何の話・・・?ごめんね」

けれど、それでも
終わりませんでした。

「どうしても
俺に勝ちたいんだな」

その言葉を聞いたとき、
私は、もう
黙ることにしました。

これは、もう
意見の違いでも、感情の衝突でもない。

会話の前提が
まったく共有されていない

と感じたからです。

話題がすり替わる違和感と疑問

その夜、
私の中に残ったのは

静かな疑問、
そして不快な感覚でした。

なぜ、
子どものプレゼントという話題が

  • 勝ち負け
  • 攻撃
  • 優位性

の話に
すり替わるのか。

なぜ、
伝え方の配慮への謝罪が

  • 「謝罪」として受け取られず
  • 「操作」
  • 「マウント」

そんな風に解釈されるのか。

その理由を、私は
ずっと考え続けてきました。

私:自分の選択や結果は自分の課題

私はこれまで
夫と関わる中で

無意識のうちに、私が
ある前提を置いていたこと
気付きました。

それは

人は、自分の選択や結果を
誰かのせいにせず、
自分の課題として扱う

という前提です。

不快な現実や、失敗や、居心地の悪さを
相手に処理させず、
自分のものとして引き受ける。

私は、それを

大人になること
だと思っていました。

そして、
その前提の上で

お互いがより良い関係を
築いていくもの

そんな風に考えていたのです。

同じ場所にいても見ている景色が違った

けれど、
彼はそこにいませんでした。

私は

一緒に考え
一緒に立ち止まり
試行錯誤を言葉にできる
伴走者を求めていました。

一方で彼が
求めていたのは、

安心を外から与えてくれる
装置のような存在だったのだと、
今は思います。

この前提が違えば、

同じ会話も、出来事も
まったく違う意味を持ってしまう。

私が
一緒に考えたい」と
差し出した言葉は、

彼には
責任を押し付けられた
に変換される。

善意」は
圧力」に見え、

私が
内省」だと思っていた態度は、

彼には
裁かれている、説教
ように映る。

そこにあったのは、
意地でも、悪意でもなく

人生をどう引き受けるか
という、
立ち位置の違いでした

この違いに気づいたとき、
私は初めて、

「分かり合えない」
という感覚の正体を、
言葉にできた気がしたのです。

夫:引き受けないことで守られる世界

夫が大切にしていたのは、

自分の安定や尊厳は
外部環境によって
保たれるべきもの

という前提でした。

例えば、
不快な感情が生まれたとき
その原因は

自分の内側ではなく、
状況や相手の振る舞いに置かれる。

だから、

問題は
誰が悪いのか

不安は
誰のせいなのか

という形で
整理されていきます。

この世界観の中では

自分が傷つかないこと
自分の立場が揺らがないこと

それ自体が、
最優先の価値になります。

話し合いは
理解し合う場ではなく

  • 負けないための場
  • 優位を保つための場

になりやすい。

だから、
問いは内側には向かわず

  • 説明
  • 正当化
  • 反論

という形で、
外へ外へと伸びていく。

それは、
怠慢でも未熟さでもなく

「これ以上、傷つかないため」

に選び取られた
夫なりの生き方なのだと今は思います。

「引き受ける人生」と「回避する人生」

ここで、私と夫のあいだにある
決定的な違い
一度整理しておきたいと思います。

それは、
考え方の好みでも
性格の問題でもなく

人生との向き合い方
そのものの違いでした。

私の

自分の選択や結果は
誰かのせいにせず、
自分の課題として扱う

という価値観に対して、

夫は

自分の安定や尊厳は、
外部環境(他人・立場・状況)によって
守られるべきもの

という

人生は、自分で引き受けるものではなく、
できるだけ傷つかずにやり過ごすもの

と言う価値観。

責任を引き受けない
在り方は、
一見、楽そうに見えます。

私も確かに少し前までは
そう思っていました。

でも、今は違うんです。

  • 達成感は、他人のもの
  • 満足感は、借り物
  • 自信は、根を張らない

その結果

自尊心だけが
静かにすり減っていく

これは
理屈ではなく、
日々の積み重ねの中で
私が確信したことです。

私が手放した役割

この違いに気づいたとき
私は同時に

自分が長い間
背負ってきた役割にも気づきました。

それは、妻として

夫が大人になること
夫が人生を引き受けること
夫が変わること

その「きっかけ」を、
私が担おうとしていた
という事実です。

誠実に向き合えば、
言葉を尽くせば、
考え続ければ

いつか
同じ場所に立てる

私は、どこかで
そう信じていました。

でも、それは
「伴走」ではなく

相手の人生を私が勝手に
前に進ませようとしていた行為
だったのかもしれません。

そしてそれは

私の仕事ではなかった事に
気付いたんです。

分かち合えない人とは、分かち合わない

私は、今年、
夫だけに限らず

分かち合えない相手と
無理に分かち合おうとすることを
やめました。

「分かち合えない」ではなく
「分かち合わない」。

それは
諦めでも、怒りからでも
失望からでもなく

自分の心を
守るための選択
でした。

理解し合えないことは、
どちらかが悪いから
ではなく

立っている場所、見ているものが
違うだけ
のこともある。

その違いを
正す」必要はない。

ただ、
踏み込みすぎない

それだけで、
関係は静かになる事を
実感したんです。

今、私が選んでいる時間

今の私は
一人で内省する時間が
いちばん穏やかです。

間違えたことも、
遠回りも、
試行錯誤も、

すべてが、自分の
自尊心の土台になっている
と感じています。

私は
「自分の行いを、
他の何かのせいにしない」

それだけは、これからも
手放さずにいたい。

そして

こうした反省の時間を持てているのは
夫という存在が
あったからこそだとも思っています。

だから、夫には
感謝してます。

ただし
人生を引き受けるのは、
それぞれの仕事

2025年の終わりに、
私はようやく、
その境界線の上に
静かに立てた気がしています。

さいごに

この記事が、
2025年、最後の更新になります。

今年は、
家庭のこと、仕事のこと
自分の内側に生まれた違和感について

これまで以上に
言葉にしてきた一年でした。

書くたびに、
分かったこともあれば、
分からなくなったこともありました。

でも今は

「分からなさ」を
そのまま抱えたままでも
書き続けていいのだと
思えています。

来年は、
答えを急ぐ文章ではなく

もう一段
深いところで立ち止まりながら
問いそのものを丁寧に

掘って言葉にまとめることと

気付きと共に
成長していけたらいいな

そんなふうに考えています。

ここまで読んでくださった方、
この場所に立ち寄ってくださった方に
心から感謝しています。

どうか

それぞれの場所で
それぞれの人生を
静かに引き受けながら

穏やかな年末と
新しい年を迎えられますように。

また来年、
ここでお会いできたら嬉しいです。

2025年
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です