正しすぎて近寄りがたい人だったかも?――「正論の鎧」を脱いで、Netflixを観る自分を許すまで

今回は、これまでの自分自身の
「やらかし」を振り返りつつ(笑)

そこから見えた
改善点を探していくお話です。

正論を大事にしてきた自分が
実はその「正論のボール」で

周りをドッジボール状態にして
人を不快にさせていたかも
しれない――

正論を大事にしてきた自分が
正論に傷ついた経験を経て

その事実に気づいたことで

正論と人との距離を
どう縮めたらよかったのか。

それを、今回は
言葉にしていこうと思います。

「普通のこと」を言っているつもりだった

私はこれまで、ごく自然に
こんな考え方をしてきました。

「それは仕事なんだから、やるべき」
「引き受けた以上、責任は果たすべき」

自分でも
筋は通っていると思っていました。

むしろ
ここが揺らぐということは、

自分を信用して任せてくれた
相手からの信頼そのものが
揺らいでしまう
気がして

だから、
間違ったことを
言っているつもりは全くありませんでした。

相手のためを思って
仕事の本質を説いた。

自分ではそう信じていました。

かといって、相手の感情を
無視しているつもりもなかったし

どちらかといえば

相手の気持ちに寄り添おうとするタイプだと
自分では思っていたのです。

それなのに。

放った一言をきっかけに
場の空気がすっと冷えたり

相手の表情が
固くなったりするのを
何度も見てきました。

「え、今の、そんなにきつかったかな?」
「どうして、急に距離ができたんだろう…」

その理由が、
ずっと分からなかったのです。

「正しいこと」が凶器になるとき

私はこれまで
自分の責任感に誇りを持って
生きてきました。

「一度引き受けたことは
最後までやり遂げる」
「できない理由を探す前に
どうすればできるかを考える

こうした姿勢こそが
自分を成長させてきたという
自負があります。

だからこそ

仕事の現場で
「やる気」や「感情」という
曖昧な理由でブレーキがかかることに

強い恐怖に近い違和感というか
拒否反応を抱いていました

なぜなら、
ここを曖昧にしてしまったら

信じて私に
任せてくれた相手からの信用や
チームの
信頼関係そのものが
崩れてしまうのではないか

そう思っていたんです。
でも、
今ならわかります。

私が、「正論」という
最短ルートの答え
急いで提示していたとき、

私は
相手が今どこに立っているか
全く見ていなかった
いうことに。

相手は、ただ

その時「できない自分」を
責められずに済む場所を
探していただけかもしれない。

今は、解決策を聞く前に
自分の内側にあるモヤモヤを
誰かに受け止めてほしかった
だけかもしれない。

そんな可能性を
全く無視していた自分
に気付いたんです。

そもそも

人と話すということは
本来、

同じ地平に立って
ボールをパスし合う
チームプレー」であるはず。

それなのに、私は
自分の責任感だけを先行させて

相手の準備が整う前に
重量級の「正論」というボールを
全力で叩きつけていた・・・。

相手にしてみれば
それは、
対話ではなく

逃げ場を奪う「攻撃」に
他ならなかったのかもしれない。

そんな風に思うのです。

正論に傷ついてきた、かつての私の記憶

こうして
「正論」を振りかざしてしまっていた
私ですが、実は

家庭という一番身近な場所で
という名の「正論のプロ」に
鍛えられ(叩きのめされ)

深く傷ついてきた経験もありました。

「それは努力不足だね」という
ぐうの音も出ない四文字熟語を
突きつけられた時のあの絶望感…。

自分の至らなさを突きつけられ、
まるで自分の人格そのものを
否定されたように感じたとき。

「いや、その通り、
正論なのはわかってるけど、
今、その球は取れないよ!」

と、
心の中で叫んでいたあの時の痛み。

自分が痛かったはずなのに
気づけば私も同じ
「剛速球」を投げていた。

完全に、
防衛本能が暴走していたんだ
と思います。

私が、「ちゃんとやらない人」や
「できない自分を直視しない人」に対して
強い拒否反応を示していたのは、

正しさへのこだわりというよりも
かつての傷ついた自分を見たくない
という防衛本能だったのかもしれない。

そんな風に思うんです。

完璧ではない、一人の人間として

正直に言います。

私は決して、常に背筋を伸ばして
「責任!」と
唱えている人間ではありません。

やるべきタスクを華麗にスルーして
「今日はもう、世界が滅びるまでNetflix」
と決めて、

アイスとじゃがりこ片手に
寝っ転がっている日だって
普通にあります。

夕方、子ども達が帰ってきて
我に返り

画面に映る
自分の虚無な顔を見て
自己嫌悪に陥るまでが
1セットです。

つまり

私は、決して
常に正しい人間でも
完璧な人間でもない

それなのに

なぜか、他人に対してだけ
反射的に
「責任」や「役割」という言葉を
早く差し出してしまう

自分でもその矛盾に
どこか居心地の悪さを感じて

ここが私の未熟な部分だと
理解しました。

私が放つ正論は
相手を黙らせる力は持っていたけれど
相手を動かす力は持っていなかった。

正論すぎる私は、いつの間にか
誰にとっても
「近寄りがたい人」に
なってしまっていたのかもしれない。

そんな風に思ったんです。

「下手くそな自分」を認める

ここまで考えて
ようやく一つの答えに辿り着きました。

私には
「今、この会話は何のためか」を
見極める視点
圧倒的に足りていなかった。

これは

仕事を前に進めるフェーズ
の話なのか

それとも

一度止まって感情を整理するため
の話なのか。

そうやって
思いとどまって
考え直してみた時

ふと、
私が尊敬している先輩方の
行動を思い出しました。

彼らは、いつでも

私を説得して動かすのではなく
私が自ら納得して動きたくなるような
「余白」
をつくって下さる・・・。

そうだ。

共創が上手な人は
相手が腹落ちするまで待つ
余裕を持っている。

私は、まだそれが下手くそなのだ。

そこに
やっと気付いたんです。

正論を言いたくなる自分も
責任を曖昧にしたくない自分も

今もまだ、私の中にちゃんといます。

これは
私の根本的な素質の部分だと思うし
私が信じている私の意見だから。

けれど

その、自分の中の”正論”を
口に出す前に
一呼吸おいて

「今は何の話をしているんだろう?」
と問いかける。

これからは、その
一呼吸を忘れないようにしたい。
そんな風に思っています。

まとめ

正論は、私を正しくしてくれました。

でも同時に

正しいけど、
誰も寄り添ってくれない山頂へ
私を連れて行ってしまっていた。

これからは
山頂で一人で
旗を振るのではなく

山の麓で、みんなと
「どうする?」と相談しながら
歩く練習をしたい。

「正論」という名の
重量級ボールを、いつか

ふわふわのゴムボールで
キャッチボール出来るように
なりたいな。

そんな風に思っています。

まだまだ修行中ですが、

そんな「下手くそな自分」を
面白がりながら
進んでみようと思います。

さいごに

正論人との距離
どう縮めるか。

「まだ下手くそな自分」を
認められたとき

相手が今どこに立っているか
と同時に
自分がどこに立っていたのか
も、見えた気がしました。

今回は、長くなってしまいましたので
この辺で。
後半に続きます。

次回は、具体的な解決策について
考えをまとめていこうと思います。

今回もお読みいただき、ありがとうございました。

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