感情は丸ごと受け止める。でも、行動のハンドルは放さない──「正論」に代わる、私なりの誠実な境界線

今回のお話は、【前編からの続き】
となります。

まだ読んでいない方は是非こちらからどうぞ↓

お恥ずかしいことに

「正論」という名の武器を手に
私は多くの沈黙を生んできました。

けれど

その武器を誰よりも先に
そして誰よりも執拗に
突きつけられ続けてきたのは

他でもない私自身だったことを
少しお話させてください。

私の夫婦生活は長年
正論という名の嵐の中にあったことも
事実でした。

夫は、極めて論理的で
「自分が正しいにこだわる」人。

私が何かにつまずいたり
弱音を吐いたりするたびに

彼から返ってくるのは、常に
”正しい裁き”=正論でした。

「それは君がポンコツだからでしょ」

「感情的になっても解決しないでしょ。
落ち着いて理論的にどうするかを考えたら?」

……。

今なら
『あ、そうですね、
ポンコツ界の精鋭ですから』と
返せるかもしれませんが・
笑)

当時の私の自尊心は
その正論に
少しずつ削り取られていきました。

私はただ

「大変だったね」と
言ってほしかっただけなのに。

「分かっている。
分かっているけれど…
今はそれができないから
苦しいんでしょ…。」

喉元まで出かかったその言葉を
飲み込み続け
私はいつの間にか

正論に怯え、
正論を憎むようになっていた
そんな時期もありました。

それなのに。

ふと気づけば
私はかつて自分が受けてきたのと同じ
正しさの暴力」を

他人に対してに向けて
振るっていた事に気付きました。

自分がされて一番嫌だったことを
他の人たちに再現しているという事実
に気づいたとき…

私は、目の前が暗くなるような
衝撃を受けました。

私は、この
正しさの呪縛」から
抜け出さなければならない。

そう決意して辿り着いた先が、
今回のお話です。

「やる気が出ない」に潜む構造

正論を振りかざすのをやめる。

そう決めた一方で、私は
どうしても譲れない違和感
とも向き合わなければ
なりませんでした。

それは

「やる気が出ない」
「モチベーションが上がらない」という
言葉への拒絶反応でした。

私は「やる気が出ない」という言葉に
どうしても心がザワついてしまう。

(…Netflixを1日中観ている私が
言えた義理ではないのですが、
それは棚に上げて聞いてください笑)

人が「やる気が出ない」を
盾にするとき。

そこには

自分を無能だと思わずに済む
「便利な避難場所」があることに
気づいたんです。

そこには
「プライド」と「責任回避」の
奇妙な共存
があります。

「やらない」と言えば
怠慢を責められる

「できない」と言えば
能力不足を認めざるを得ない

そのどちらも直視したくないとき、
気分が乗らない」という言葉は

自分を無能だと思わずに済む
とても便利な避難場所
になってしまうんです。

かつて

正論に自尊心を削られていた私は、
一方で

その痛みから逃げるために
「感情」を言い訳にすることの危うさも
身をもって知っていました。

感情に溺れて
行動を止めてしまうことは
結局のところ

自分自身の人生のハンドルを
放り出すこと
に他ならない。

これを痛感していたからです。

感情は尊重するけど、行動は免除しない究極の優しさ

試行錯誤の末、

私は自分の中に
一つの確固たるルール
を設けることにしました。

それが

感情は尊重する。
でも
行動は免除しない

というスタンスです。

・・・

字面だけ見ると、

鬼教官か!
ツッコミたくなるほど
冷たく感じるかもしれません。

でも、これは

感情に溺れて
自分を嫌いになってしまう人への

私なりの
「究極の守り」の形なんです。

仕事において、何かに悩み
立ち止まってしまう感情そのものは

誰にも否定されるべきではない

  • 今日はどうしても足が向かない
  • あの人の言い方が気になって集中できない

その気持ちは、
事実として受け止めます。

寄り添い、
聞き、
その想いを尊重します。

けれど

だから、
やるべきことをやらなくていい」
ということにはなりません。

感情のケア役割の遂行

この二つを切り分けて考えることが
結果として

その人自身を守ることになる
と気づいたんです。

よくよく考えてみたら
当たり前の事なのですが、

感情に流されて責任を放置すれば
後で、
さらに大きな自己嫌悪や
周囲からの不信
という

正論の嵐」を
招くことになるからです。

提示すべきは「正論」ではなく「選択肢」

では

感情が追いつかない相手に対して
私が何をしてあげられるのか。

私の答えは
正論で追い詰めるのではなく

選択肢を差し出す」ことでした。

選択肢は常に三つです。

  1. やる(気分は置いておいて、淡々とタスクをこなす)
  2. 役割を変える(今の自分にできる形に、やり方や範囲を調整する)
  3. 引き受けない(今の自分には無理だと判断し、潔く降りる)

どれを選んでもいい。

けれど

「選ばないまま、そこに居座り続ける」
ことだけはさせない。

この線を引くこと

会話を
どちらが正しいか
という空中戦から

これからどうするか」
という現実的な着地点へと
移すことが目的です。

勉強会のお誘いの話

少し前、知人から
勉強会のお誘いを受けたました。

お誘いと言っても

  • 日時だけいくつか提示されていて
  • 場所、内容等は一切決まっていない

という状態のものでした。

以前の私なら、

期待に応えたい一心で、

「行けるように調整してみます
(=行けなかったらごめんなさい)」

のような、曖昧な返事をして
自他ともに消耗させていたはず。

(この『行けたら行きます』が
一番罪深いんですよね…笑)

でも、今は

「嬉しい!」という気持ちと
「無理な現実」を
切り分けられるようになりました。

  • 今日中に判断して返事をすること
  • 具体的なプランが提示出来なければ今回は辞退すること

これをお返事し、

行動の明確化
相手への誠意を示しました。

踏み込みすぎず、巻き込まず、
逃げもしない。

この境界線を引けたとき
私はかつて
正論に削られていた自分を

ようやく自分の足で
立たせることができた気がしました。

冷たい自分を、無理に否定しない

正直に言えば、今でも

「できない自分を直視しない人」
を見ると
すこし胸がザワつきます。

できれば、
自分の人生には深く関わってほしくない
と思うことすらあります。

そして
以前の私は、そんな自分を

「人として器が小さい」
「冷酷だ」

と責めていたかもしれません。

けれど、今は

その違和感も大切な
自分の境界線
と受け入れています。

私は、
感情を理由に
行動を免除し続ける世界には
居場所を見つけられませんでした。

だからこそ
今のこのスタンスを
選ぶことを決めました。

感情を切り捨てたいわけじゃない。
弱さを否定したいわけでもない。

ただ、

感情を受け止めた上で
それでも
自分の足で一歩を踏み出そうとする
誠実さや強さを信じたい。

私はそういう人。

と言う風に
今は自分を見ています。

まとめ

正論は、人を孤独にする。

けれど

感情と行動を分ける
誠実な境界線」は

人と人とを対等につなぐ
架け橋になる。

そんな風に感じるんです。

でも、これは
誰にでも当てはまる正解ではない
と思っています。

実際には
感情に流されて
自分の人生を止めてしまうことに

私自身がもう
耐えられなくなった——
それだけの話だったのかもしれません。

まだまだ下手くそで、とっさに
”自分の中の正論”が
顔を出す時もあるかもしれないけれど

私はこの境界線という
新しい「彫刻刀」のような言葉を

人を傷つけるためではなく、

絡まった感情行動
きれいに切り分けて

自分自身の人生を
美しく削り出すために
使っていきたいと思っています。

その方が、
私自身も
私の周りにいる大切な人たちも

もっと自由に息ができる
そんな気がするからです。

今回も最後までおよみいただき
ありがとうございました。