私は次男と二人で
上野の国立科学博物館で開催されている
「絶滅展」へ行ってきました。
親子のお出かけといえば
これまではどこか
「イベント」のような
高揚感を求めていた気がします。
- 感動を共有したい
- 何かを学んでほしい
- 『楽しかったね』と笑顔で言い合いたい
けれど
この日の博物館巡りは
そんな「親としての期待」を
そっと脇に置いた
少し静かで
淡々とした時間になりました。
そしてその静けさの中にこそ
私たちが求めていた
「本当の体験」があったことに
気づかされたのです。
今回は、そんな
私たち親子の日常を
書いてみたいと思います。
Contents
「共有」という見えない重荷を手放す
かつて
子どもとどこかへ行くときの私は
無意識に
「同じ温度」であること
を求めてしまっていたような
気がします。
展示を見ては
「これ、すごいね!」
「どう思った?」と
感想を引き出そうとしたり
理解が揃っているかを
確認したり。
反応が薄いと
「せっかく連れてきたのに
興味ないのかな…」
などと
勝手に不安になったり。
でも最近
その“共有”という行為を
自分も、
そして
おそらく息子も
少し重く感じ始めていることに
気づいたのです。
もしかしたら
感想を言葉にすること
を強いるのは
相手の自由な思考を
妨げることに繋がるのではないか。
理解を揃えようとすることは
親の正解を押し付けているだけ
になりはしないか。
そんな違和感を感じたんです。
なので、今回はあえて
「別々に楽しむ」という
実験をしてみることにしました。
福山雅治さんの声と、ダンクルオステウス
展示の入り口で
次男には音声ガイドを
借りることにしました。
今回のガイドは、
福山雅治さんのナレーション。
実はわが家では
ヒョウモントカゲモドキを飼っていて
もともと爬虫類や
生き物が大好きな次男。
そんな彼にとって
福山さんの落ち着いた声は
太古の世界へ没入するための
最高の相棒になるはずだ
と思ったからです。
ヘッドホンを装着し
自分の世界に入っていく次男。
私はその背中を見守る形で
自分のペースでのんびりと
解説パネルを読みながら
歩くことにしました。
無理に手をつなぐことも
感想を言い合うこともせず
ただ同じ空間に身を置く。
彼の耳には物語の導きがあり
私の耳には博物館の静寂がある。
それぞれに
違う贅沢な時間を過ごしながら
時々、次男の姿を確認すると
彼は私の視線とは
全く違う方向を
じっと見つめています。
「あ、今、この子は
私とは違う世界にいるんだな」
そう思うと
なんだか可笑しくて
同時に、
とても自由な気持ちになりました。
親がガイド役を務めなくても
彼は彼自身の感性で
太古の生物たちと対話している。
途中、次男がふと
ヘッドホンを外して
少し誇らしげに言いました。
「ダンクルオステウスが見れて嬉しかった」
……ど、、、どれだったかな?(笑)
恐竜や古代生物に詳しくない私は
心の中でそうツッコミながらも
思わず笑みがこぼれました。
私には素通りしてしまいそうな
異形の魚に
彼が心を射抜かれたこと。
同じ展示を見ていても
見えている世界は
これほどまでに違う。
その「ズレ」が
とても愛おしく感じられました。
私は
「そっか。よかったね。」
とだけ返し
それ以上の解説も
感想の深掘りもしませんでした。
彼の心の中にある
ダンクルオステウスを
そのままにしておきたかったからでした。
ワニが教えてくれた「他者への想像力」
特別展のあと、
私たちは常設展示館にも
足を延ばしました。
そこで足を止めたのが
大きなワニの標本です。
その先に
研究のために
野生のワニからサンプルを採取する
生々しい現場映像が流れていました。
研究員たちがワニに
針のようなものを刺し、
必要なサンプルを取っていく光景。
科学の進歩のためには欠かせない、
人間の正義に基づいた光景です。
それを
じっと見つめていた次男が
ぽつりと呟きました。
「……ワニからしたら、いい迷惑だよね」
その一言に
私はハッとしました。
彼は研究を
否定したわけでも、正しさを
批判したわけでもない。
ただ、研究の為に
夜のリラックスタイムを邪魔されている
ワニという「他者」の立場に、
一瞬だけ心を寄せたのです。
その真っ直ぐな想像力に
胸を打たれました。
ああ、この子はちゃんと
自分の目と心で
世界を見ている。
親が「命の大切さ」なんて
言葉で教え込まなくても
彼は展示を通じて
自分なりの慈しみを拾い上げていた。
「共有」なんてできなくてもいい。
私がワニを見て「カッコイイな」と
思っている隣で
彼が
「ワニの迷惑」を案じている。
その
別々の感性が並んでいること自体が
最高に豊かな体験なのだと確信しました。
絶滅のあとの「生」を見つめる時間
絶滅という生命の歴史の「終わり」を
深く見つめたあとに
常設館で今も生き続けている
生物たちの系譜を見る。
この流れは
私たち親子にとって
心地よいリズムとなりました。
「未来」や「進化」といった
大きな言葉を押しつけられるのではなく
ただ、今ここに存在している
命の不思議を
静かに受け取ることができた気がします。
振り返ってみれば
この一日は
終始「淡々」としていました。
派手なハプニングもなければ
感動の涙も、
熱い議論もありません。
でも
展示をすべて見終えたときの満足感は
これまでのどのお出かけよりも
深いものでした。
親が教えるフェーズから
彼が自分で見つけるフェーズへと
私たちの関係が
静かに移り変わった証拠
だったのかもしれません。

二階建て列車の景色と、ケーキの余韻
帰りは、次男が前々から
「やってみたい」と言っていた
願いを叶えることにしました。
「グリーン車の二階席に乗ってみたい」
上野から横浜までの短い旅。
窓の外を流れる景色を眺めながら
私たちは
ほとんど会話をしませんでした。
次男は窓に顔を寄せ
私は座席に深く身を沈めて。
でも
その車内に流れる静けさは
決して気まずいものではなく
お互いの余韻を
邪魔しないための
優しい「個」の時間でした。
横浜に着き
家族4人分のキルフェボンの
タルトを買って帰宅。
特別な教訓も、
深い対話もなかったけれど
その夜の私の心は
なんだかとても満たされていました。
まとめ:分かり合えないからこそ、隣にいる
親子の時間は、いつも
「分かり合う」必要はないのかもしれません。
同じ展示を見て
違うところに心が動く。
そのズレを埋めようとせず
ただ
「そうなんだね」と
そのまま受け取る。
分かり合えないことを
寂しがるのではなく
分かり合えないほどに
お互いの感性が自由であることを
むしろ喜びたい。
「共有」しなくても
体験は一緒にできる。
そんな親子の在り方が
これからの私にはちょうどいいようです。
今回もお読みいただき、
ありがとうございました。












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