家でコピーを
取っていただけでした。
子どもの教材を
プリントしようと、
いつものように
プリンターの前に立ったんです。
我が家のプリンターは
仕事でも使うため、
A3サイズまで対応している
ブラザーの少し大きめの
MFC-J7500CDWという機種。
オフィスにある複合機に
ちょっと似ていて
上のカバーもそれなりに重いやつです。
軽くパカッと
開く感じではなく
「よいしょ」と持ち上げる感じ。
その日は、
左手にコピーする本を
持ったまま
右手でカバーを
開けていました。
正直、私は力がない方なので
やっぱ重いなー
とは思っていました。
でも
上から体重を
かけたつもりはないし
押さえつけた感覚もありませんでした。
ただ、手を添えて
コピーを取っていただけ。
そのとき、
後ろから声がしました。
「そんなに押さえて
大丈夫なの?」
あ・・・
と、私の”夫レーダー”が反応しました。
これ、
また始まるやつだな、
と。
今回は、
こんな些細な事から始まった
私の振り返りを
書いておこうと思います。
Contents
押してない、と言っただけなのに
私は
反射的に答えました。
「押してないよ」
事実だと思ったから。
すると、
すぐに夫は返してきました。
「いや、
一部始終見てたけど、
上から
押さえつけてたよね?」
その瞬間・・・
胸の奥で
小さな警報が
鳴りました。
——あ、やっぱり
これはもう
コピーの話じゃ収まらないぞ、と。
以前の私なら、
きっとこう言っていたと思います。
「押してないってば」
「体重かけてない」
「壊れるほど押してない」
そして、
もっと言えば
「なんで
分かってくれないの?」
と、心の中で
思っていたと思います。
でも、
今回は違いました。
私は、
それ以上
何も言わなかった。
だって
私の”事実”を「違う」と言う事への
無意味さに気付いたから。
些細なのに、なぜこんなに疲れるのか
この出来事だけを
切り取れば
本当に些細な出来事だと思うんです。
プリンターは
壊れていないし
コピーも
ちゃんと取れた。
誰かが
傷ついたわけでも
ない。
それなのに
なぜか
後味が悪い。
なぜか
どっと疲れる。
こういう場面は
今まで何度も経験してきました。
内容は違っても
構図は
いつも同じ。
「私は
そうしていない」
「いや、
そうしていた」
この繰り返し。
話しているうちに、
だんだん
論点がズレていって
最後には
何を話していたのか
分からなくなる…
そして
残るのは
「分かってもらえなかった」
という感覚だけ。
ずっと、
不思議でした。
どうして
こんなに
消耗するんだろう、と。
プリンターの重さと、見え方のズレ
冷静に考えてみたんです。
我が家のプリンターは
確かにカバーが重い。
左手に本を持ったまま
片手で持ち上げると
上から
手を添えているように
見えたかもしれない。
もしかしたら、
傍から見たら、
「押さえている」ように
見えた可能性はある。
一方で
私はというと、
体重をかけた自覚はない。
力を入れて
押した感覚もない。
どちらも
嘘ではない。
ここで
ふと気づいたんです。
——これ、
話が交わる事はないな。って。
これに気付けた瞬間、
少しホッとした自分と
少し寂しい自分が
同時にいました。
「分かり合えない」
と決めてしまうのは
逃げなんじゃないか?
とも思ったし
でも
ここで食い下がっても
また同じ所に戻るだけだな…
という感覚も確かにあったからです。
水掛け論の正体に、言葉がついた瞬間
「押していた」
「押していない」
これはもう、
検証できない。
映像が
残っているわけでも
ないし
数値で
測れるものでもない。
それなのに
なぜ人は、
ここで決着を
つけたくなるのか。
考えていて、
ストンと
腑に落ちたのは
水掛け論って
「事実を確定させに行った瞬間」に
始まるんだ
ということ。
もちろん、
全部が全部そうとは
言い切れないのかもしれません。
ただ、
少なくとも私の場合は
事実を決めに行った途端に
話がこじれていたな…と
振り返って思います。
事実を
確定させるということは
つまり
- どちらかを「正しい」にして
- どちらかを「間違い」にする
ということ。
ここに
入った瞬間、
もう
対話じゃなくなっている
そんな事実に気付きました。
事実を争っているようで、実は違う
表向きは、
「何が起きたか」
を話している
でも、本当は違う。
起きているのは
「あなたの見た世界」
と
「私の見た世界」
どちらを正とするか、
という話。
そして、多くの場合
相手が
必死になっている理由は
事実を
確認したいからじゃなくて
自分の見た世界を
否定されたくない
それだけだったりするんじゃないか?
ということ。
「ちゃんと見ていた自分」
「正しく判断できる自分」
そこが揺らぐのを認めるのが
怖い。
もしくは、
許せない何かがあるのかもしれません。
だから、
さらにより強く主張を繰り返してしまう…
という構造になっている気がするんです。
「俺は、見ていた」
「間違っていない」
そうなると、
もう
出口はありません。
以前の私は、戦場に入り続けていた
以前の私は、
この戦場に、毎回
足を踏み入れていました。
「違う」と言われれば、
「違わない」と返し
「見てた」と言われれば、
「それでも違う」と言う。
正しいことを
言っているつもり
だった。
でも
結果はいつも同じ。
疲れる。
伝わらない。
モヤモヤが残る。
それなのに、
なぜか
自分を責める。
- 「言い方が悪かったのかな」
- 「説明が足りなかった?」
今思えば…
そもそも
入らなくていい場所に
入っていただけだった
という事に気付きました。
戦わないための、一つの言葉
今回、私は黙りました。
それは
諦めでも、
逃げでもない。
「あ、
ここから先は
水掛け論になるな」
そう
分かったから。
もし
言葉を選ぶとしたら
こう言えば
よかったのかもしれません。
「あなたには、
押してるように見えたんだね。
私は、押してるつもりはなかったよ」
これなら、
- 相手の見え方は否定しない
- でも、自分の感覚も引っ込めない
- 正解を決めに行かない
ただ、
二つの主観を
並べて終わる。
それだけで、
戦場にはならない雰囲気が
作れたのかもしれません。

分かり合おうとしない、という選択
以前の私は、
「分かり合うこと」が
正解だと思っていました。
それは
分かり合えないと
関係が悪い気がしていたからでした。
でも今は、少し違います。
分かり合えないこともある。
見え方が違うこともある。
それを、無理に
一つにまとめる必要はない。
そのまま分けておく
という選択。
それは、
冷たいことじゃない。
自分を守る
境界線であり
関係を
これ以上こじらせないための
適切な距離感。
今はそう考えるようにしています。
正直、
毎回うまく立ち回れるわけではありません。
つい、分かってほしくなったり
説明したくなったりもします。
それでも
「あ、今また事実を決めに行こうとしてるかも?」
と気づけるだけで
以前よりも
立ち止まれるようになりました。
小さな出来事が教えてくれたこと
コピー機の前で起きた、
ほんの小さな出来事。
でも
そこには
いつもの構造が
そのまま詰まっていました。
水掛け論は
事実を確定させに行った瞬間に
始まる。
そして、今の私は
その手前で
立ち止まれるように
なったこと。
これが、
今の私にとって
一番大きな変化だと気付きました。
これからも
同じような場面は
きっとあるでしょう。
でも
もう、全部に
付き合う必要はない。
このやり方が
本当に正解なのかは
分かりません。
ただ、少なくとも
以前のように
小さな出来事のたびに
心をすり減らすことは
減りました。
それだけでも
今の私には十分かな
と思っています。
このお話が、
以前の私のように
正解の見えないやり取りの中で
気づかないうちに
自分の心を後回しにしてきた方のもとへ
そっと届けば嬉しいです。
読んでいただき、
ありがとうございました。












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