「察しすぎる私」の卒業。 境界線を引くことで見えた新しい景色

私は今年、
小学校の子供会で
地区委員を
務めています。

ある日、
地区委員の
グループLINEを
何気なく読んでいたとき

ふと、こんな言葉が
頭に浮かびました。

「……だから、何?」

自分でも一瞬、
ドキッとしました。

冷たい?
性格が悪い?

また、
そう思ってる…?

”性格が悪い”についてはこちら↓もどうぞ笑

でも

その感情を
そのまま飲み込まずに

少しだけ立ち止まって
眺めてみると…

そこにあったのは

誰かへの怒りや否定ではなく
ただ静かな
違和感でした。

今回は
そんな小さな違和感を手がかりに

これまで、必要以上に
気を回し過ぎていた私自身が
気づいたことを書いてみようと思います。

テーマは、
「察しすぎてきた人が、
境界線を引くということ」

です。

なぜ「だから何?」になったのか

その日、
グループLINEに
送られてきた
メッセージは

一見すると
とても丁寧でした。

状況説明があり
これまでの経緯があり

今後の流れも
細かく書かれている。

情報量としては
決して
少なくない文字量でした。

でも

最後まで読んだあと
私の中に残ったのは

何が言いたいの?
何をしてほしいの?

という

宙に浮いた
感覚でした。

依頼はない。
質問もない。
判断を求められてもいない。

ただ、

共有しました
という
事実だけが
置かれている。

それなのに、

なぜか、落ち着かない私。

  • 「返事したほうがいいのかな」
  • 「何か見落としてる?」
  • 「私が動く前提?」

そんな思考が、勝手に
頭の中を回り始めました。

この感じ…

私は昔から
よく知っています。

私が無意識にやってきたこと

振り返ってみると

私はこれまでこういう場面で
とっさに反応して
よく動いてきました

誰も拾っていないボールを
拾う。

話を整理して
要点をまとめる。

先回りして
確認する。

空気が
荒れないように
言葉を選ぶ・・・。

誰かに頼まれた
わけでもないのに

自然と
体が動いてしまう…。

自分の中では、それは
親切」のつもりでした。

実際

「気が利くね」
「助かる」

そんな風に言ってもらえることも
ありました。

でも、同時に

いつもどこかで
疲れていたのも事実でした。

なぜか。

こういった役割は、
一度引き受けると

静かに、
そして確実に

固定されていく
からです。

気づけば、

察する人。
まとめる人。
動く人。

そして、
それをしないと

「冷たい人」
「協力的じゃない人」

そんなレッテルを
貼られてしまうような空気感。

私はずっと
そんな、見えない圧
感じてしまっていました。

本当の違和感の正体に気づいた瞬間

今回、
「だから何?」と感じたとき

私は、
感情ではなく
構造を見ていました。

これまでにも
地区委員の活動の中で

他のメンバーの行動には
小さな引っかかりが何度かありました。

たとえば

普段の活動時では
あまり関わりが見えない一方で、
ご自身の都合が絡む場面では
進行や判断に強く言及されることがあったり

「対応したつもりだった」
という表現が使われることで、
責任の所在がどこか
曖昧になってしまう場面があったり

ご自身の便宜を優先するあまり、
本来想定されていた役割分担や
連絡経路が形骸化して
町内会の方にまで混乱させてしまったり

さらに、

判断や対応を求めているわけではない、
興味本位の詮索の情報までが
一律に「共有」として流れてくることで、

誰が動く前提なのかが
見えにくくなってしまったり。

こういったことが
いくつも重なっていましたが、

その一つ一つを
深く考えることはしてこなかった。

ただ、「答え」を探し
反応し、結果、
私の”仕事”になってから

あれ・・・?

と感じる事の繰り返し・・・。

こうした小さな積み重ねが、
今回の
「だから何?」という
感覚につながっていたのだと
今になって思います。

ボールの所在が曖昧な世界

仕事でも
地域活動でも

人とのやり取りのなかで

  • 誰のボールか
  • 決定権はどこか
  • 今は動くフェーズなのか

これが整理されないまま進むと
何が起こるか。

察する人だけが
動く

整理できる人だけが
消耗する

そして、

察して動けば

「ありがとう」で終わり、

察さなければ

「冷たい」と言われる。

でも、本来それは

優しさの問題でも
性格の問題でもなく

役割と責任の
線引きの問題だと思うんです。

私が今回、動かなかった理由

今回、私は
”動かない”という選択が出来ました。

返信もしない。
補足もしない。

自分の中でこう判断したからです。

そして

動かなかったことで
思った以上に何も困らなかった

それもまた、私にとっては
大きな気づきでした。

「今回は、
私が席に座る場面ではない」

関係者ではない席に、
無理に座らない

宙に浮いたボールを
反射的に拾わない。

それは

誰かを突き放す行為ではなく
責任を放棄したわけでも
ありません。

無責任な構造に
巻き込まれないための境界線

でした。

そして

私は気づきました。

私が引っかかっていたのは、

相手の能力でも、
姿勢でもない。

この話のボールは、今
誰が持っていて

誰が受け取るべきなのか。

それが明確化されていないことへの
むずがゆさのようなものだったんです。

境界線は、冷たさではない

境界線を引くというと

  • 冷たい
  • 突き放している

そんなイメージがあるかもしれません。

でも、

私が感じている境界線は
拒絶ではなく、整理です

「ここまでは私の役割」
「ここから先は違う人の役割」

そうやって線を引くことで
初めて健全な関係が保たれる

察し続けることが優しさになる場面も
確かにあるとは思います。

でも

察し続けない選択も
同じくらい大切なのだと

今の私は思っています。

まとめ:自分の席を守るということ

世の中には
本当にいろいろな人がいます。

丁寧な人もいれば、
言葉が足りない人もいる。

全体を見渡せる人もいれば、
目の前のことで精一杯な人もいる。

だからこそ

大切なのは
誰かを評価することではない

  • 誰のボールか
  • 決定権はどこか
  • 今やるフェーズかどうか

これを一旦、
自分の中で確認して

関係者でないなら
その席に座らない

その判断を
自分に許してあげること。

それが

長く人と関わっていくための
静かで確かな知恵なのだと

40年以上生きてきて、
やっと気付けた気がします。

読んでいただき、
ありがとうございました。

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