“ちゃんと”より、“心地よく”――無理をやめた私が見つけた、生き方の整え方

頑張りすぎて、壊れそうだったあの頃の私へ

「なんで私ばっかり頑張ってるんだろう?」

気がつけば、そんな気持ちが
胸に広がるようになっていたんです。

家族のため、子どものため
誰かの期待に応えるために
自分を後回しにし続けて

心の奥に張りつめた糸が
ある日ぷつんと切れる音がしたように感じたんです。

私は、ずっと
“ちゃんとした人”であろうとしてきました。

けれど最近ようやく、自分の「無理」に気づき
「無理をやめる」ことが
手放し”ではなく、“新しい始まり”
だと思えるようになったんです。

この記事は、

そんな気づきを少しずつ拾い上げて
自分の心に言い聞かせるように
まとめたものです。

もし、読んでくださるあなたの心にも
何かの共鳴が生まれたなら嬉しいです。

「無理すること=ちゃんと生きること」だと思っていた

小さい頃から、私は
母の期待に応えることに必死でした。

「もっとできるはずでしょ」
「それくらい、ちゃんとしなさい」
そう言われ続けて育ちました。

母の期待に達していないと、まるで
汚れたものでも見るかのような目で見られたり
明らかに嫌味を含んだ言葉を投げかけられることもありました。

今思えば、それはいわゆる
“毒親”だったのかもしれません。

でも、当時の私はそんな言葉も知らなかったし
ただ「母に嫌われたくない」という思いで
必死に頑張っていたんです。

そしてその“我慢こそ美徳”の生き方は
大人になっても体に染みついたままでした。

誰かが困っていれば、
自分を犠牲にしてでも助ける。

自分のことは後回しで
つい「私が我慢すれば丸く収まる」と
考えてしまう。

それが、他人のためになることだ
と信じていたんですね。でも――

実はそれは、誰のことも助けていなかったんです。

むしろ、自分を見失っていく原因になっていたのだと、
やっと最近になって気づいたんです。

「自分の時間を奪われる」ことが、つらいと気付く

ある日、子どもが塾に
自習に行くと言って家を出たんです。

私はその隙に
ひとりの時間を過ごそうと
楽しみにしていました。

久しぶりに静かな部屋で
自分だけのことに集中できる。

そんなわずかな時間が
今の私時は何より貴重だったんですね。

けれど

すぐに子どもは帰ってきました。
塾が休みだったということだったんです。

その瞬間、心の奥底から
どうしようもない苛立ちが湧いてきました。

「また、対応しなきゃいけないの?」

自分でも驚くほど、イライラしている自分に
戸惑りました。。。

でも、そのとき
はっきりわかったんですね。

今の私は、
自分の時間を奪われることが、本当に苦しいのだと。

たとえ子どもが相手でも
その苛立ちは抑えられないほど大きいのだと。

それを認めることには、
少し勇気がいりました。

だって、母として
子供を否定しているみたいに思えたから。

でも、

ようやく素直に言葉にできたとき、私は初めて
「自分を大切にしてもいいんだ」と
思えた気がしたんです。

「いい加減」は、だらしなさじゃないと気付く

長い間、
「きちんとしていないといけない」と
思っていたんです。

部屋は片付いていて当たり前
食事はバランスよく作るべき
子どもの宿題にはしっかり付き合うべき。

そうでないと「母親失格」「妻失格」だと
どこかで思っていたんですね。

でもその「べき」は、全く自分の為ではなかった。

完璧主義者のような性格の夫の元で

「こうしなければならない」
「こうしないと、また文句を言われる」

これが続けられなくなったとき
自分を責めて、罪悪感でいっぱいになっていました。

無意識の中で
精神的支配を受けていたのかもしれません(笑)

でもそんなときに出会った言葉があるんです。

「得たいものがあるなら、不要なものを捨てなさい」

私は、余裕のなさや苛立ちの原因が
手放すべき「不要なもの」だったことに気づきました。

それは完璧主義かもしれないし
他人からの評価かもしれないし、
何より

「無理してる自分」そのものだった
のかもしれません。

全ての事を頑張ってたら、
そりゃ疲れるよね。

「余白」があると、丁寧さが戻ってくる

心に余裕がないと
所作や言葉遣いにもギスギスが現れてくるんですね。

家族に投げる言葉も
とげとげしくなり、態度も粗雑になってしまう。

でも、

「これをやらなきゃ」「早く済ませなきゃ」と
自分を追い立てるのをやめて

ほんの少し呼吸できる余白をもてたとき
不思議なことに、心がふと
“美しさ”を求め始めたんです。

季節の花に目をとめたり
丁寧にお茶を淹れてみたくなったり。

きれいな言葉を選んで話してみたくなったり。

私は実はそういう自分がとても好きで
そんな風に生きたいと思っている…

という事に気づいたんです。

これまでの努力は、
自分がなりたい自分に近づくための我慢や努力じゃなかった
と気付いたんですね。

自分を大切にすることは、他人を雑に扱うことじゃない

自分の時間を持ちたい
自分をもっと労わりたい――。

そんなふうに願うことに、以前はどこか
「わがままじゃないか」と
後ろめたさを感じていました。

でも、自分に余裕がないときこそ
家族にあたってしまったり
無意識に “雑な愛情”を
投げてしまうことがある。

これって矛盾してますよね?

だからこそ、

自分を満たしてあげることが、結局は
家族を守ることにつながるのだと
今は思っています。

自分の子供はどう育ってほしいか

私が「我慢=愛情」ではないと気づけたのは、
私自身が親になってからでした。

「子どもには、こんな風になってほしくない」と
ふと感じたとき、その“こんな風”は
まさに自分の姿そのものだったんです。

我慢して、無理して、評価を気にして、
自分を後回しにして――。

そんな生き方を、子どもにはさせたくない。

だからこそ

私がまず、自分を許し、大切にする生き方を選びたい
そう思ったんです。

40代になって、ようやく少しずつ
自分の“ちょうどいい”を見つけられるようになった気がしています。

完璧じゃなくていい。

丁寧にできない日があってもいい。 でも、
心に余白をもつことは、忘れないようにしたい。

そしてなにより、

自分を否定しない他人を否定しないこと。

それが、今の私がようやくたどり着いた
小さな「気づき」でした。

さいごに:もっと自分を満たして生きよう

これまで私は、
誰かの期待に応えることが「生き方」
だと思ってきました。

でも今は、それよりも
「自分を満たして生きること」の方が
ずっとあたたかく、力強いものだ
と感じています。

無理しないことは
怠けではなくて「丁寧に生きる準備」

自分を大切にすることは
他人を雑にすることではなくて

「より深く愛せるための土台」

そう思えるようになった今
ようやく私は、“ちょうどいい私”を育て始められた気がします。

同じように

肩の力を抜いて、自分に優しくなりたいと願う誰かの心に
この言葉がそっと届いたら
心から嬉しく思います。

最後までお読みいただき
ありがとうございました!

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