ふとした瞬間に
私はよく考えることがあります。
身だしなみって
どこまでが「マナー」で
どこからが「見栄」なんだろう? と。
私たちは社会のなかで暮らす以上、
完全に “見られ方” から
自由になることはできません。
だからといって、
過剰に飾るのも違和感がある。
かといって
無頓着すぎれば、
周囲に不快感を与えてしまう…
この “ちょうどいい” を探すのが、
いつだって難しい。
今回は見栄とマナーの境界線について
私の考えを書いてみたいと思います。
Contents
マナーとは「相手のための身だしなみ」
まず、マナーとは
案外シンプルなものだと思うんです。
マナー=周囲への思いやり
堅苦しいルールではなく、
相手に不快や負担を与えないための
気づかいです。
例えば、
- ボロボロすぎる服
- 汚れている靴
- 清潔感のない身だしなみ
こうしたものは
「自分らしさ」とは別次元で
他者を不快にさせてしまう
可能性があります。
それだけではなく、
「あなたを雑に扱っている」
「この場を大事に思っていない」という
相手への無言のメッセージと
受け取られてしまうことだってあります。
- 清潔であること
- 場の雰囲気に馴染む色や質感を選ぶこと
- 不必要に強い主張を避けること
これらは
自分のためではなく、
相手のための所作です。
だから、最低限の「清潔さ・整い」は
やはりマナーとして必要
ということですね。
見栄とは「自分のための演出」
反対に、見栄はもう少し
“自分寄り” のものです。
見栄=自分をどう見せたいか、という自己演出。
- 少しでも美しく見られたい
- 相手に良い印象を与えたい
- 自分の価値を、装いを通して表現したい
人はときに、
少し背伸びをすることで
気持ちが整い、
前向きになれます。
装いが自信を後押しすることは
確かにありますし、
そこに悪い要素が
あるわけではないはず。
つまり、
見栄を張る行為には
「社会のなかで自分を保つための工夫」
という面もあるということ。
しかし
見栄という言葉には、なぜか
ネガティブな印象がつきまといます。
それは
“過剰な見栄” が嫌われるからで、
”度”を越さない自己演出は、多くの場合
むしろ自然で健全だと思うんです。
ただし、
見栄には「他者軸の不安」からくる
側面もあります。
- ブランドがないと不安
- 高いものを身につけていないと見劣りする
――そんな気持ちで固めると、
疲れや虚しさがついてくることも
あると思うのです。
境界線が消えていく瞬間
問題は、マナーと見栄の境界が
溶け合う場面です。
たとえば、
格式の高いパーティへ招かれたとき。
そこは
参加者同士が
“共通の美意識” を楽しむ場です。
ハイブランドのドレスが
ドレスコードではないにせよ、
あまりにもカジュアルすぎる装いは
結果として “相手を軽んじる” 行為になる。
少し違うけれど、
例えば
広島カープの応援に
阪神タイガースのユニフォームを
着て行くようなものかもしれません。
極端に雰囲気から外れた装いで行くと
「場にそぐわない」=マナー違反
と受け取られる。
だからといって、
全身ブランドで固めると
「見せつけたいのかな?」
という印象に変わる瞬間もある。
どちらも
場にそぐわないという点で問題になります。
要するに大切なのは、
値段やロゴではなく“調和”
どんな時も
場が求める空気を読み、
そこに自分の美意識をどう溶かすか――
これが現代のマナーでもあり、
同時に見栄と上手に付き合う
コツでもあります。
この “ほどよさ” が
実に難しいわけですよね。
歴史が教えてくれること:貴族社会の「調和感」
ここで、歴史の話を少しだけ。
かつてのヨーロッパの宮廷社会では、
身だしなみに
厳しい約束事がありました。
奇抜すぎても、
安価で粗雑でも、評判を落とす。
服は地位のしるしであると同時に、
場を整えるための
“協調の言語”でもありました。
現代の私たちも、
形式は違えど
似た感覚を共有しています。
「空気を読む」日本的な感覚は
端的に言えば
この調和感の現代版なのかもしれません。

見栄は人間らしい
ここまで読むと、やはり
「結局見栄って悪いことなの?」
と思う方もいるかもしれません。
でも、私は、
見栄はむしろ
“人間らしい自然な反応” であり、
良い・悪いというのは
ただの個人の価値観だと思っています。
- よく見られたい
- 背伸びしたい
- 少しでも美しくありたい
こういう想いがあるからこそ、
人は進化したり、自分を磨こうとします。
見栄は悪ではなく、
“エネルギー” になるという概念もある。
だからこそ、難しいものになるんだと思います。
自分らしさと社会性のちょうど真ん中を探す
私は昔からアクセサリーが好きです。
去年、トリニティ100周年という節目に
ネックレスを迎えました。
あの、赤い箱を開けたときの
淡い光とチェーンの重み。
指先に伝わる冷たさが
思いのほか胸に残って、毎回
ちょっといい気持ちにさせてくれます。
100年も前から変わらず
受け継がれてきたフォルムには
やはりそれなりの”意味”がある。
その佇まいを前にすると
理由なく背筋が伸びる。
誰かに見せるためでも
地位を示すためでもなく
ただ「好きだから」
身に着けます。
とはいえ、
それが他人の目にどう映るかは
別の話です。
私はこういう気持ちで
身に着けているけれど、
他の人から見れば
ただの「見栄」に映ることもあるでしょう。
同じ一つの物が、人によっては
「見栄」だったり
「流行りもの」だったり
「意味の分からない高級品」に見えることもある。
そうした他人の評価や偏見は
避けられないので、それを恐れて
自分の好きを隠す人もいるだろうと思います。
でも、そういう姿を演出する、という決定も
”そのひと”を表す見せ方なんじゃないかな。
と思うんです。
人はみんな、
それぞれの価値観や経験を通して
“ものを見る”
同じものを身につけていても
そこに込めている思いや
背景は人それぞれで
他人には見えない部分のほうが
むしろ大きい。
だからこそ私は、
ここは
「どう見られるか」よりも
「どう自分が感じるか」
を大事にしたいと思っています。
もちろん、ビジネスのシーンなど、
時には外側からの評価を優先して
「どう見られるか」を
意識する場面もありますが、
基本的には、外側からの評価は
時にすれ違うし、
時に誤解される。
けれど、
身につける理由が自分の中で確かなら、
誰にどう思われても
その選択は揺らがない。
外側の解釈に左右されず、
装いは自分らしく立つ。
この、“好きだから身につける”
という感覚は、
私にとって、
見栄よりもう少し根っこにある
純粋な喜びなんですよね。
私にとってのアクセサリーは
見栄でも装飾でもなく
“いまの自分に寄り添ってくれる存在”
だからこそ
私はそこで気づきました。
見栄でもマナーでもなく、
“好き” が選択の中心にある装いは
人を自然体のまま美しく魅せる
そんな風に思うんです。
心地よいバランスを自分で選ぶこと
この記事を書きながら、
私は改めて思いました。
見栄を否定する必要はない。
マナーを過剰に恐れる必要もない。
どちらも、
私たちが社会で気持ちよく生きるための
“ツール” にすぎないのだから。
大切なのは、
「自分の心地よさ」と
「場の調和」の真ん中を
探し続ける姿勢ではないか
ということ。
そして
見栄もマナーも、結局は
“見え方”の話だけれど、
向いているベクトルが違うということ。
- マナー:他者への配慮というベクトル(外向き)
- 見栄:自己表現や自己肯定というベクトル(内向き)
この二つを意識して
「どちらを優先するか」を自分で選べることが
本当の意味での品格に繋がるんだと思います。
TPOを踏まえたうえで、
好きなものは好きと堂々と言える強さも
控えめに馴染むやさしさも、
どちらも魅力の一部になるはず。
その両方があるからこそ、
装いは“品よく自然な佇まい”になるんだと思います。
おわりに
人それぞれ境界線は違います。
文化や経験、場面によっても変わる。
だから
正解は一つではありません。
ただ一つ言えるのは、
- マナー=場に対する配慮
- 見栄=自分の美意識の表現
この2つは、本来
まったく違う役割を持っている
ということを知って、
自分が心地よいラインを自覚して選ぶこと。
それが、他人の評価に
振り回されない装いにつながります。
TPOを踏まえつつ、
好きなものを大切にすること。
控えめに馴染む優しさも、
堂々と好きを語る強さも、
どちらも私の魅力。
両方を自分で選び取る――
それが、
見栄とマナーをしなやかに
両立させる秘訣だと、私は思います。
お読みいただき、ありがとうございました。












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